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LET'S TALK ABOUT MUSIC & VOLVO SPECIAL TALK ピーター・バラカン×細野晴臣

June 14, 2018

細野いいね〜。ピーター、踊っていたね。さすがガイジン!

(会場笑)

バラカンラジオの僕の番組だと、全部かけるんだけれど、今夜はここのイヴェントだから、この辺りで絞ります(笑)。

細野この曲、ぼくもやっているんですよ。

バラカンあ、ほんとう!?これが、オリジナル・ヴァージョンなのかな?

細野そう、これがオリジナル。いろんな人が演っているけれどね。

バラカンチャック・ベリーとか……、ザ・ローリング・ストーンズとか。

細野いろんな人がカバーしていますね。名曲ですよ。ブギの基礎みたいな1曲。

バラカンジョン・ハモンドという伝説のレコード・プロデューサーが、1938年だったと思うけれど、「From Spirituals to Swing」というコンサートをカーネギー・ホールでやったんですね。黒人音楽の一番のルーツというのは、「Spiritual」=「黒人霊歌」だったわけです。まだゴスペルが誕生する前。マニアックな話ですが、細野晴臣というと、ほんとうはこういう話ばかりしているDJなんですよね。

細野そう。なんて言っても、ブギーは自分のルーツだから。

バラカンこういう音楽が好きになったのは、昔から?それとも、最近?

細野4歳から。

バラカン4歳!?ルーツがブギーってこと?

細野そう。生まれた家が、大家族が一緒に暮らすような家でした。両親、祖父母におじさんとか。終戦のすぐ後ですよ。家にはいろんなレコードがあった。SP盤の軍歌もあったし、童謡、落語、浪花節、そういったレコードが並んでいるところに、ディズニーの音楽もあった。それから、スイング。そこに、1枚、ブギーが入っていた。

バラカン1枚だけ。それは、何のレコードだったか、覚えていますか?

細野はっきりは覚えていないけれど、たぶん、ベニー・グッドマンとか、そういう有名なものだったと思います。小さいぼくはそれを聴くのが大好きで、「(それを)かけてくれ、かけてくれ」って親に頼んでいたらしいのね。で、それを聴くと、4歳だったぼくは飛び跳ねていた。

バラカン当時の細野さんは、ガイジンだったんだね(笑)。

細野ガイジンだね(笑)。でも、演歌とか、当時の日本の歌謡曲も聴いていたよ。まだ戦時色が濃かった。1947年生まれでしょ。ピーターは、生まれはどこ?

バラカン僕は、ロンドン。

細野ロンドンも、戦後の、戦争の影響は残っていた?

バラカンものすごくあったと思う。もちろん、僕は自分では直接覚えていないのだけれど、(当時に)映像や写真を見ると、ひどかったね。ナチスの攻撃を受けていたからね。

細野音楽は、子供の頃、何を聴いていたの?

バラカンちっちゃいとき、家にはまだレコード・プレイヤーがなかった。ラジオでした。

細野ラジオは大事ですよ。

バラカン小学生のときはBBCしかないから、それを聴くのだけれど、とにかくどんなジャンルの音楽も流れていた。ただ、当時はラジオでレコードを流すことに規制があった。ミュージシャンの組合が、自分たちが演奏して稼ぐために、ラジオでレコードをかけることにネガティブで、あまりかけさせないようにするという規制があった。だから当時は、1日のうち2〜3時間しか、レコードが流れなかった。でも、かける音楽は若者向けだけじゃなくて、何から何まですべて流していたね。子供向けのリクエスト番組があって、僕が聴いていたのはそういうもの。で、時々ふとロックンロールの曲も流れていた。

細野それと同じような話が、ポール・マッカートニーの自伝に出てきていたね。

バラカン僕らの世代は、みんな同じ体験をしていると思う。彼の方がちょっと上だけれど、同じようにラジオを聴いていたと思います。とにかく、細野さんが今、ブギーをやっているのは、自分自身の「ルーツ回帰」なんですね?

細野自分でも、「なぜぼくはブギウギやっているんだろう?」って思うよね。東洋の片隅でね。ぼくはね、戦後の、1945年以降の、GHQによるある種の洗脳だったと思っている。戦後の日本に、GHQは、ブギウギという音楽をバラまいたんだろうなって。

バラカン(日本をアメリカ化していく)プロパガンダのひとつとして。

細野そうです。でも、ブギウギはけっして悪い音楽じゃない。面白い音楽だから、ぼくら音楽家や音楽を愛する人間にとっては、理由はどうであれ、ブギウギが各地で流れて聴かれていたのは、とってもいいことだった。服部良一さんという大作曲家がブギウギをベースにした曲を書いて大ヒットしたりね。「東京ブギウギ」とか、ブギウギの歌謡曲がたくさん出て、日本でブギウギが大ブームになったんだ。

バラカン細野さんが、音楽を人前で演奏するようになったのは、何歳くらいの頃?

細野中学生のときですね。(当時)サーフ・ミュージックを演っていたんですよ。

バラカン波乗りもしていた?(笑)

細野波乗りは、大学のとき一度だけ行ったんだけれど、その一度でやめました。とにかく、僕が中学生の頃にビーチボーイズが大流行したんだよね。中学1年生のとき、ラジオを聴いていたら『サーフィンUSA』が流れてきて、「なんだこれ!?」という衝撃を受けて。キックが聞こえる音楽だった。キックというのはバスドラムのことなんだけれど、それまでの洋楽って、キックは聞こえてこなかった。「サーフィンUSA」は、ぼくが初めてキックを認識した洋楽でした。もちろんそれまでも入っていたよ、フィル・スペクターとかね、でも、はっきりアタック音が入って聞こえてきたのが、ビーチボーイズだった。とにかく、それでもうサーフ・ミュージックのとりこになったわけ。ファッションも含めてね。コットンパンツにボタンダウンとかね。アメ横まで買いに行ったんですよ。ホワイトジーンズ、ぴっちぴちの(笑)。おばあちゃんに「何それ?」って嫌な顔されたよ。

(会場笑)

細野でも、新しいことなら何でもやっていたんだよね。それで、同級生集めて、バンドを始めたんです。当時、ぼく以外の仲間はみんなエレキ・ギターを持っていたんだ。

バラカンずいぶんマセた中学生だね。

細野ベンチャーズの影響だよね。ベンチャーズが流行って、みんなエレキ・ギターを持ち出した。日本の楽器メーカーが安いエレキ・ギターを作って出していたんだ。ぼくは、クラシック・ギターだけ持っていた。親と一緒に銀座の山野楽器へ行ってね。ギター売り場を通っているとき、服の袖が弦に触れて音が出たんだよね、ふわーんって。瞬間、ゾクゾクってしたんだ。

バラカン開放弦が鳴る音……

細野そうそう。生まれて初めて(結果的に自分が鳴らして)聴いた音だった。ピアノは家で子供の頃から強制的にやらされていたんだけれど、ぜんぜん好きになれなかったけれど、ギターは違ったよね。

バラカンじゃあ、この辺で1曲かけましょうか。今度は細野さんに選んでもらおうかな。

細野自分の曲でもいい?

バラカンもちろん。

細野ブギーつながりの曲なんだけれど、英語で自分で歌っているんだけれど、これは歌詞がすごく難しくてね。ピーターに、(発音が)合っているかどうか確認してもらおう(笑)。去年の秋にリリースしたアルバム『Vu Ja De(ヴ・ジャ・デ)』から、「Ain’t Nobody Here But Us Chickens」

「AIN’T NOBODY HERE BUT US CHICKENS」by 細野晴臣

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